現虚夢

イェーイ

心理検査の結果待ちに思うこと

今は故郷の秋田に帰省中である。東京に戻ると1日後には帰省前に受けた心理検査の結果を聞くことになっている。この秋田にいる2週間ほどが、表向きには定形発達者でいられる最後の時期になるかもしれないということだ。

心理検査を受けたことを彼女に話した。「発達障害だなんてありえないと思う」と言われたけど、発達障害だともし分かったらフられるだろうか?そしたら泣くかもしれない。もし発達障害だったら言わないことにしようかな……。それもまずい気はする。迷うところだ。ちなみに母に話したらいつもどおり完全なる無理解と認知の歪みをぶつけられたので心が穏やかでなくなった。それは違うんだよと説明しても秒で聞く気ないでーす!みたいにそっぽを向かれたので来世はもっと良い親の元に生まれたらどうなるかな……とか思っていた。

発達障害だと打ち明けた時、彼女の顔が曇るかもしれないとか、すぐ起こるようなことを考慮しないならば、もし自分が発達障害だと分かったらテンションが上がると思う。逆に定形だとしたら、ちょっとがっかりかもしれない。なんでだ?

考えてみたけれど、それは俺が生半可には理解出来なさそうな変な人間や面白い人間を見るのが好きだからかもしれない。もし自分がそういう周囲の理解を得られないような人間だと分かったなら、俺のことを理解できるのは世界にこの俺だけ、という状況に近くなってくる。そしたらとても嬉しいだろう。こんな面白いコンテンツを、俺が独り占めしているってことになるんだから!独占欲が満たされる。俺は結構マニアな人間なので、好きな作家とか学者がいたら日常生活まで覗き込んで隅々まで見回してみたい!と思う。作品や論文となんの関係もなさそうなところまで隅々と。(好きな女の子や女性アイドルに対してそういうことをしたい、とかは思ったことがない。学者や作家を近くで見たことはあっても本当にストーキングしたことはない。倫理。)好きな学者の日々の挨拶やジョークをいちいち記録してアーカイブ化したい!というか、既に自分に関してはそれを楽しんでやっている。過去の自分を見るのが好き。自分の顔が好きとか、自分の性格が好きとか、そういう実在的要素に関するナルシシズムとは少し違う気がする。1週間前の自分は大好きだけど、現在の自分に対する強烈な好意みたいのはぜんぜん無い。話が逸れたなぁ。元の、俺の理解者が俺だけになったら嬉しいという話に戻りたい。まぁ要するに、青春をまさに送るものたちにとっては「理解者が欲しい!友達が欲しい!」みたいなのは切実な問題かもしれないけど、自分はそうではなくなってきたという話がしたいんだ。

大学に入るくらいまでは、俺は俺の理解者が世界のどこにも居やあしないと絶望し、日々苦しんでいた気がする。孤独、無理解、傷心、疲弊。それが退屈さと共にずーっと永遠に続くということに暗い気持ちになり本当に自殺を考えていた。何もかもうまく行かない。勉強もスポーツも友達関係も親子関係もうまくいかない。ゲームとか趣味のことですらできなくなっていた。ゲーム起動までできればまだすごく良い方で、起動して3秒くらいしか電源を入れたままにできなかったのだ。3秒の間に「これをやってもつまらないだろう。これをやってどうなる?これをやっても仕方がない」と瞬時に未来を計算し終わって悟ってしまう感覚が発生していた。ゲームでさえこれなのだから、教科書やノートを広げて勉強しようなんていう気にはなる訳がなかった。今でもそういう感覚を何に対しても薄く引きずっている気がする。当時は何もできず、ただ掛け値なく本当にただ気持ちよく布団で眠っていた。学校に通っている間はスポーツで筋肉がついていたのに、ずっと眠っていれば小さい老人みたいになる。顔も痩せる。体重はめちゃくちゃ落ちる。そんな感じだった。家には自殺用ヘリウムガスボンべとチューブが買って置いてあった。眠れない時にはそれのことを考えていた。本当は抱いてじっと見つめたかったが、それをやるほど元気でもなかった。ただ、会えない恋人のことを想うようにヘリウムガスボンベのことを想って、震えて枕を濡らしていた。俺にできることはそれだけだった。本当それだけ!世界に要素がそれだけだったので、孤独を感じるほかなかった。世界が寂しい。世界が乏しい。誰のことも理解できないし、誰にも理解されない。俺は一人でこの寂しさを抱えて生きる。誰とも共有なんかできない……。

と、大学に入るまでは思っていた。うん。

高校にいるころまで俺は、自分が世界で一番特殊で、学校の勉強もできないのに自分が世界で一番頭がよいのだと思っていた。だからこんなに毎日苦しくて嫌で吐きそうなのだと。大学に行ったらそんなことはなかったと分かった。つまらない人間も大勢いたけど、呆れるほど頭が良い人間も複数見つけてしまったのだ。権威のある学者が概念だけでなく本当にいるなんて聞いてない!俺より500倍くらい頭が良い同い年の人間がいるなんて理解不能だ!という感じだった。俺が全然特殊でもなんでもない凡俗な人間だということを理解した。俺が孤独であるのは、俺が実在的に特殊な性質を持つ人間だからではなかった。そして、それまでの人生を後悔した。もっと真面目に人生やってくればよかったな、と。俺は全然頭なんて良くなかったのだ。もっと勉強の積み重ねが必要だった。それに気づいただけでも、大学に来た価値はあったかもしれないが……。大学は無闇やたらに人を苦しめる機構が少ないし、多様な人間がいる良い場所だ。最初からこういう義務教育ならばどんなに救われただろう、と思わなくもない。

大学に来てアイデンティティみたいなものがめちゃくちゃに揺らいでしまった。俺は特殊な人間なのか?ということ。実は俺は絶対的に特殊な人間であり、俺だけがそれに気づいているからそれでよいのだが、それだけでは何の味もしないのだ。ちょっとでも俺が変な人間なら、ほんのすこし安心できる気がする。それで俺が発達障害ならいいな、という話に繋がる。俺はこの人間の一生をつぶさに見ることになるのだから、その人間が面白い人間で、簡単に理解できないような複雑で非定型なものでなければつまらないだろう?だって、「普通の人生でした」で終わったら面白いか?見どころのないドラマを見て、どうやって他のドラマと違う感想を述べる?特殊なことがない人生をどうやって他と区別し、自分のものだと心から思える?「発達障害」というラベルだって今では広く知れ渡ったものだけど、多少も救いにならないものではない。

分かったことは、理解者など自分以外にいるものではなくて、それが必然だということ。そして自分の理解者は自分だけで充分なのだということだ。こういう悟りは、高校生の頃までの俺にはなかった。そして、真に俺は孤独なのであり真に特殊なのであるということにも気がついた。高校生の頃だって自分のことを孤独で特殊だと思っていたが、今はレベルが違う。俺はどうあっても孤独で特殊なのだ。どうあっても孤独で特殊なのだから、それに泣いたりする必要はない。そうでないことなんてありえなかったのだから。そうなってくると問題なのはもっと小さなことになる。すなわち、孤独とか特殊とか大きいことは悩むことじゃないから、とにかく複雑で豊かで面白くて飽きない楽しい人生であれ!ということ。

なんかやたら抽象的で意味不明だったり矛盾したりしていることを書いてしまっている気がするが、俺には意味が分かるからいいや。過去のことを考えたり書いたりするのは楽しい。それがどうあっても特殊で味わい深いものに見える。そして、この文もいつか俺によって省みられ、楽しまれるに違いない。そうでしょ?悪文や誤謬、偏見やイデオロギーを後から充分に楽しんでよ。

さて、心理検査はどうなっているだろう。楽しみだ。ま、健常者だったらそれはそれで嬉しがってもよいだろうな。