現虚夢

イェーイ

孤独

親は俺のことを理解できずに迫害した。今でも同じだ。全く俺を理解できないままに自分が理解できる文脈に勝手に読み替えて俺を激しく非難する。俺は全く的外れなのだと言っているのだが、言葉が全く理解できないようなのだ。ただただ不毛だし疲れるし、いったい言葉はなんのためにあるのかと思ってしまうが、それはまぁいい。そんなことが問題なのではなく、実際に「こういう人間しか将来俺の周りに現れないならば、一生俺は一人でいい」と思っていたこと、それが実現するかしないかが大事なところだ。

本当に、そういう人間しか俺の周りに現れないのだとすれば、孤独こそ最も価値あるものだ。それに対して、もし心から理解し合える人間がこの世にいるのなら、その人間と生活を共にするために人生のリソースを割きたい。世界はいったいどちらになっているだろう?前者であっても絶望はしないが、どちらであるのかくらいは分かっていなければならない。

親と違って「話せる」人間は世間にたくさんいることは分かってきている。だけど、本当に理解し合える存在なのかは微妙なところだ。結局のところ程度問題で、本質的に人と人とは理解し合えないのだとすれば、俺は喜んで孤独でいたい。

言葉の通じない人と一緒にいることほど苦痛な事はない。「完全に理解し合える」ということを定義するならば、「完全に言葉が通じる」ということに、なるだろうか。そんなことはありそうにない。どんな人間同士でさえ、言葉のとり違いくらいは起こる。やはり程度問題なのだろうか。世間にいる「話せる」人たちは、親と同じ延長線上にいる存在なのだろうか?だとすれば悲しいことだけど、どうにもそうは思えない気がするのだ。俺はまだ孤独でいるべきか、いないべきか、迷っている。