現虚夢

イェーイ

さがさないでください

 帰ってきてなんの意図もなくただ部屋を見やると、「さがさないでください」とだけ書かれた紙が、机の上に乗っていた。
 一体なにを探せというのだろう?普通、「さがさないでください」というのはいいとこ中学生までの子どもが家出する際のお決まりの文句として紙に書き残していくものだろう。しかし、僕には子どもなんかいない。小さい子どもというだけでなく、一緒に生活する子どもというだけでなく、どのような子どもも僕は持っていないし、隠し子がいるとかそういう心当たりなんかもない。
「さがさないでください」という文字は定規を使ってカクカクに書かれている。筆跡を隠すためだろうか? 恐怖を読む相手に与える文字だ。僕はこの部屋に何者かが侵入したのではないかと考え、六畳一間を見回した。ただ本が積まれただけの部屋。なかなか高い専門書も積まれているが、盗まれた気配はない。乱雑に積まれたそのままの配置だ。少しのお金が入った通帳も盗まれた気配はない。
 まったく気味が悪い。研究室とアパートの自室を行き来するだけの毎日を送る、対して値打ちのあるものも持たないしストーカーされるほど誰かに好かれるとも思えない僕だぞ。
 そんなやつの部屋に入り込んで「さがさないでください」とだけ書いた紙だけ置いていくやつなんて、いるとは到底考えられない。もしそんなことをして楽しむやつがいたら、本物の男(女かもしれないが、それは無さそうだろう)と認めてはやるが。
 自分はセキュリティ意識が高いとは言えないが、窓の鍵と玄関の鍵くらいはちゃんと締めていたし、破られた様子はない。まさか僕の数少ない友人の悪ふざけということもあるまい。こんな最悪のセンスの悪ふざけをするピッキングが特技の暇で奇特な友人など、僕にはいない。いたら面白いだろうが。
 警察に言うべきだろうか?いや、こんなこと報告されたって警察も困るだろう。下手したら頭の病院を勧められる。実害はないことだし、ここは泣き寝入りをしておこう。仮にそんなやばいやつが本当にいたとしたら、それはそれで面白いじゃないか。防犯意識のかけらもない考え方だが、とりあえずはそう思っておこう。誰かが特に意図せずともなにかの拍子にこの紙が机に落ちたとか、そういうことも下手したらあるかもしれない。残念ながら僕の想像力では蓋然性が高そうな例などまったく考えもつかないが、身に起こった不思議なエピソードとしてひとつ携えておくのも悪くはない。
 放っておいたらそのことばかり考えてしまいそうになるので、意図して他のことをする。ちゃんと生活しなければ。飯を食う、風呂に入る、歯を磨く。そんな風に生活をやれば、体力のない僕はきっとすぐに何もできなくなって、やがて眠りにつく。紙をクシャクシャに丸めて、ダーツの要領でゴミ箱にシュートする。運が良かったので成功した。なにもかも、運だけが良くて成功したらいいのになぁ。そういえば運ってなんのことだろうなぁ。と、他のことを考えながら生活をやって、本当に眠くなってきたので眠ることにした。紙が誰によってどのように置かれたか考えるよりもずっと良かったということだろう。多分。

 朝、大学の三限に間に合うギリギリの時間に起きて朝飯(時間的には既に昼だが)を食いもせず歯だけ磨いて荷物をまとめていると、不意にまた机の上に「さがさないでください」を発見した。
 それを見つけた途端に僕としては珍しくシリアスな心情になる。こいつは恐ろしくなってきた。昨日の段階では呑気なものだったなぁと思えてくる。ゴキブリを見つけたときほどビクついて、しかしそれとは比べられないほど深刻なくらい朝から栄養のない頭が回転している。僕ははここで寝ていたんだぞ。どうしてまたこんな紙が机の上に置かれるなんてことがある? ゴミ箱を覗いたら昨日の紙はそのままゴミ箱にクシャクシャに丸まっていた。今日の紙は違う紙だ。また、新しい紙か。
 そう思っていると既に三限に間に合わない時間になっていた。相当手際よく準備してもギリギリ三限に間に合うくらいの時間に起きていたから、多少びっくりしただけでそういう時間になってしまう。持ち上げかけていたリュックを早々に床に置いて、脱力してもう一度布団に転がった。俺の三限を奪いやがって。許さんぞ。と思い、今度は紙をクシャクシャにせずそのままにしておいた。指紋とか、そういうのが出るかもしれない。警察に説明するのは想像するだけで大変そうだが、考えておかなければならないだろう。面倒だ。というか、僕の頭がおかしくなったんじゃないか? その公算も高い。大学に行ったら僕は頭がおかしくなってないか、と人に聞いてみようか。おかしな話だ。自分の頭がおかしくなっていても自覚なんかなかなかできない気がするが。
四限が始まるまで何をしていよう。目を瞑って考える。たっぷり寝たから、二度寝はいらないか? 起きて大学の学食に行き昼飯を食べてから講義を受ける、というのもたまには良いかもしれない。目を覚ましたばかりのだるい体を再び起こす前に目を開けると、顔の上に何かが乗っていた。
「さがさないでください」
 なんなんだ! 探さないよ! もう僕はびっくりなんかしていなくて、苛立ちのようなものを覚えていた。まずい。これはおかしい。なんだかもう大学に行くとか、そういう話じゃなくなってきた。僕、疲れてんのかな。たっぷり寝てるし、たっぷり食べている。たっぷり運動もしているし、たっぷり水も飲んでいる。たっぷり頭も使っているし、たっぷり性欲も満たしている。もう僕に何ができるっていうんだ?
 ああ、なんだか全てにやる気がなくなってしまった。いつもは食べない甘いものをたっぷり食べたくなってきた。酒もたっぷり飲みたい。寝ないでゲームをしていたい。時間をたっぷり使ってなんの得にもならない陳腐なことがしたい。研究やら健康やら予定やら未来やら、そんなものは一切考えたくない。ただ頭で考える前に体が求めたものだけを忠実に満たしていきたい。
「みつけてくれてありがとう」
 口がぼそりと呟いた。構うものか。今からてめえを愛で回して、飼いならしてやるぞ。まずはハーゲンダッツを二十個買ってきてやる。見たことはあるが食ったことはない。俺はやるぞ。