現虚夢

イェーイ

スイミングスクール

小学校2年生くらいからスイミングスクールに通っていた。通い始めた動機はかわいいものだった。小学校に入る以前に、母が勤める国立病院の敷地内にある長いこと俺が通った小さな保育園のたった5人かそこらの卒園式に出た児童のうち、年が同じで特に仲の良かった友達の総一朗くんがそのスイミングスクールに通っていたからだ。(一文が長すぎる。ちなみに病院ごと保育園は無くなってしまったので、年が違う児童も一緒に卒園した。それから総一朗くんとは別の保育園に入り、)小学校が別になってしまったので、ほとんど会うことがなくなってしまったからだ。

スイミングスクールに通い始めたら、割とすぐに総一朗くんのいるクラスを追い抜いて上級のクラスになってしまった。そもそも総一朗くんと同じ曜日に通っていなかったので、一度か二度くらいしか同じクラスで泳ぐことはなかった。(なぜ違う曜日に通っていたのに一緒に泳いだことがあるかと言うと、その時からもう水泳が嫌いになり、金曜の練習を月曜に振り替えてくれ、など、姑息な練習の先延ばしをしていたから。)

クラスはどんどん上がっていった。小学校5年生になるころには競泳選手用のクラスに入り、更に小学6年生になると全国大会に出る中学生や高校生らと同じメニューをこなすクラスに入ることになった。もう水泳は嫌いでしかなかった。ただただ苦痛だった。学校が終わってから、夜の9時まで、酷いときは一日に10キロも泳がされた。夏休みには二部連で一日に16、7キロも泳がされるただ苦痛一色の毎日。一日に16、7キロ泳がされるのは一日に16、7キロ走るのとは訳が違う運動量だ。(走るのと泳ぐの、どっちが速いと思う?)運動が終わった後は疲労で動けず、飯も食えなかった。ガリガリに痩せていた。もう総一朗くんと会うことなんて何も関係がないことをしていた。ただただ苦痛だった。毎日、練習メニューを見るのが嫌で嫌で、本当に暗い気持ちになっていた。疲労で勉強なんてできなくなっていた。それでも頑張り続けていた。その時はまだ、人間関係を守るとか、そういうことに俺はやる気があったんだ。ある時、鬼コーチが練習中に「もう疲れたよってヤツいる?」と、まさかそんな奴いないよな?という感じで聞くと、本気でありながらも冗談っぽく、俺はハイハイ!と元気よく手を挙げた。「じゃあもう帰れよ」と、コーチは出来の悪い俺を侮蔑するように言った。やる気のないヤツは本当にいらん、という感じだった。俺は帰った。コーチは止めなかった。本当に俺はいらないと言わんばかりだった。俺はもう諦められた。俺は何のためにこんなに辛い思いをしているんだろうと、更衣室で泣いた。それから俺はほどなく、水泳を辞めた。結局、総一朗くんとはなーんにもなかった。

水泳をやめて中学校でやりたかった柔道を始めると、飯が食えるようになり練習も大してキツくなかったので、1年ごとに10キロぐらいずつ体重が増え、平均並みの体重になった。柔道のコーチはめちゃくちゃ怖い人で、たぶん俺の人生で見た目や声があれほど怖い人はもう出ないだろうと思う。毎日ものすごい声で怒鳴られ、恐怖で体が強張りリラックスして技なんて出せなくなってしまうので、また怒鳴られた。毎日毎日、ただ怒鳴られていた。怒鳴られるたび、本当に死にそうな気分になっていた。柔道は好きだったが、柔道を辞めるとどうしても怖くてその人に伝えられなかったので、学校に行くのを辞めた。(学校に行くのを辞めたのは他の理由もあったかもしれないが)

俺の人生で、辛くなって人間関係をリセットしたりすることはよくある。というかここらへんから俺の人生はそういうのばかりになった。ここらが原初体験だろうか。人間関係に限らず、辛いことはすぐやめよう。今になって思えば、なんでもっと早く辞めなかったのだろう。辛くなることを俺にやらせたり、俺に怒る人間を見たら、すぐにその人間とは絶交していく感じでこれからはやっていきたい。

俺の父の葬式で、わざわざ式に出席してくれた総一朗くんと会った。とても声が低くなっていた。もしかして変声期から会ってなかったのか?嫌だなぁ。何も思うことはなかった。俺は総一朗くんに会うために頑張っていた。頑張っていた?

ああ、こういう風に思い出したことだけ書いていたら、すぐさま俺が死ぬような予期があるのはなぜだろう。走馬灯?思い出すということは、死ぬ前にすることなのかな?

追記:そういえば、そのスイミングスクールで泳ぐ夢をまだたまに見ることがある。コーチがいて、他の選手がいて、ギチギチのプールで窮屈に泳ぐ。後ろのやつに追いつかれないように泳ぐ。