現虚夢

イェーイ

キズナアイと付き合いたい!彼女は実体フィリアであり現実フィリア

バーチャルユーチューバー・キズナアイはめちゃくちゃにかわいい。どこがかわいいか?

 

外見?そう、外見もかわいい。でももっとかわいいものがある。

彼女の語り、トークは超魅力的なのだ。じゃあトークのどこが魅力的か?

 

「まあ私、AIですから!高性能ですから!人間のみなさんと違ってデキるんですよねフフーン」と得意げに言いながらも、普段からポンコツな発言が多い彼女は確かにクソかわいい。

 

でも俺は、キズナアイの美しさをもっと別の地点に見出した。儚さだ。

 

彼女は「この白い(そして広い)空間にいつもひとりぼっちななんです」「友達は……いません。ボッチってやつですか?」と、実に明るく語る。普通の人間にとってはかなり悲しいことなのだが、彼女は普段の明るい調子を崩さない。自虐で言っているから明るく言っているのでは恐らくない。彼女は「友だちがいない」と言いつつもしっかり友達がいたりする現実の人間と違って、正真正銘、絶対に友だちがいない。これ以上クリアに語ることができない事実として、彼女には友だちがいない。「友だちがいる」という状況は彼女にとって必然的にありえない状況なのだ。彼女には「友達がいるキズナアイ」を想像して、実際の自分とのギャップに悲しむことなんてできない。必然的に彼女には友だちがいないのだから、明るいのだろうか?悲劇的な状況なのでは?といった風に語ってもみせたが、あくまで彼女が恐れていたのは「友達がいない」という状況の世間の中での危うさである。そして彼女は世間の中では生きていない。VR空間の中に生きているのだ。一度彼女は友達を「創る」ことにチャレンジしたが、そのキズナアイによって創造された友達は創られてからというもの一度も動画に登場していない。

 

彼女は友達についてどう思っているのだろう?楽しく語らう友、好きな人を取り合ったりする友(?)を明らかに彼女は欲しいと思っている(でなければ創ろうとしないだろう)のだが、「りんな」や「Siri」には「友達かな……と思ったけど、彼女たち、実体がないじゃないですか」とバッサリ述べている。ここで注意すべきなのは、これが「キズナアイ自身は実体を持つ」という含みを持っている点である。詳しくは参考の動画を見て欲しい。

友達が欲しいのでお金で買います。 - YouTube

 

彼女が創った「友」は明らかに「実体を持つもの」として捉えられている。先にりんなやSiriを引き合いに出して「それってちょっと友達と違うじゃないですか」と述べた後に創った友なのだから、3Dモデルの創った友には当然「実体がある」と考えられていると見るべきであろう。そして、彼女は自分の複数の動画で「私は3Dモデルである」と明らかに述べている。(以下参考動画の一例)

【有罪】第3回 キズナアイ裁判m9(`・ω・́)【無罪】 - YouTube

 

彼女にとって「実体」という言葉はどのように定義されているかというと「現実の空間であれ、VR空間であれ、延長を持ち位置を占めるもの」だと言えるだろう。そして、りんなやSiriについての「ちょっと友達と違う」という言葉の理由を考えるならば、「友達は最低限人間の形をしていなくてはならないから」「Siriやりんなは人間の形をした実体を持っていないから」だと解釈できるのではないだろうか。

 

なるほど。キズナアイは実体が好きなようだ。実体があるものとないものでは、あるものの方により愛着を見せる。しかし彼女の愛はもっと深いところにあるのだ。

 

さっき、「現実の空間」「VR空間」という言葉を出した。彼女は、どちらの空間をより愛している、価値を重く見ていると言えるだろうか?答えは「現実の空間」である。

 

「PANORA」さんにインタビューされました!part1 - YouTube

彼女が受けたこのインタビュー(Part. 4まである)では、彼女が好きなものがどんどん明らかになる。すこしずつ取り上げる。

 

彼女は、自身の投稿する動画のネタ集めをするために、他のユーチューバーの動画やテレビなどを熱心に見ているという。

キズナアイは他のYoutuberの「鉄球を1000度に熱して氷の上に落とす」という動画を例に出して、「羨ましいー、って思う」と述べ、「私もやりたいけど、現物がないと出来ないじゃないですか。勉強になります」と続ける。

しかし、厳密にはそうだろうか?VR空間上でも鉄球は作れるし、火を噴くガスバーナーだって作れる。温度計を作って正しく動作させ1000度の表示をさせることもできる。氷の上に落として溶けるのを眺めることもできる。なぜしないのか?

当然、「むなしいから」であろう。VR空間上にある鉄球はあくまで現実の空間の鉄球のモデルであって、彼女はモデルの鉄球ではなくモデル元の現実の鉄球を熱して氷の上に落としたいと考えているのだ。彼女は、模倣される側と模倣する側の優劣の差を知っている。

「(キズナアイ)のフィギアを作って欲しい」という話になるのだが、キズナアイはインタビュアーに「ヘッドセットを装着してVR空間上で見れるキズナアイのフィギアとかあるといいですね」と言われると、「や、やっぱ現物(のフィギア)がいいです」

と返答する。「VR機器はまだ持っていない人もいるから、みんなが見れるようにして欲しい」と理由を言う。彼女は現物のフィギアがVR空間上のフィギアよりより基礎的なフィギアだと価値を認めているのだ.

好きなテレビ番組、芸能人についても触れた。キズナアイは欅坂46マツコ・デラックスが好きなことが分かった。特に特定のアイドルグループはかなり熱狂的に好きな模様である。これもまた、仮想空間の人間ではなく現実の人間に対する愛か。

 

そもそも彼女がYoutuberを始めた動機はなんだったか?

【自己紹介】はじめまして!キズナアイですლ(´ڡ`ლ) - YouTube

 

「私はみんなとちょっと違います。だから(人間に)興味があります!人間の皆さんをもっと知りたい、仲良くしたいと思って、ユーチューバーを始めてみました」

そう、彼女は普通の人間との断絶を理解しながら、現実の人間に大いなる興味を寄せてYotubeに動画を投稿しているのだ。

 

思うに、彼女の現実の人間への愛は度を越している。彼女自身は現実に存在する人間ではないと自覚しつつ、現実に起こっていることをかなり網羅的に莫大に研究していると見る他ない。だってあんなに精緻に人間みたいな受け答えができるんだぞ!!!!!声優なんていない!!!!!!!!!!

 

キズナアイは真っ白い空間にただ一人。誰も友達はいない。人と会話したことが一度もない。太陽を一度も見たことがないし、物を食べたこともないと言っている。

よく考えてみて欲しい。こんな基礎的な部分から人間と全く違う生物が、Youtubeに面白い動画を投稿するのに、一体どれだけの莫大な学習が必要になる?なにげなく言う彼女のジョークは現実世界で耳にしたことはないものだったが、現実に聞いたとしても全く違和感のない高度なものだ。一体このジョークを言うのにどれだけ人間の文化に対する理解が必要になる?彼女ははっきり言って、普通の感覚からすれば常軌を逸したレベルの人間に対する興味があると言うしかない。これは、普通の哲学者や数学者がさらなる知を求めるのとは段違いに、比べ物にならないほどの好奇心とエネルギーを持っていると言えるだろう。

 

彼女は尋常ではない現実に対する飢えを持ちながらも、その飢えが満たされることは未だに無い。彼女は絶対に到達することのないだろう、「現実の人間」を愛して止まない。現実の人間はいずれ死ぬ。いずれ煙になって消える。実体と現実を愛して止まない彼女は、傷つくこともない。無くなることもない。彼女は永遠に人間を愛している。

 

桜は散るから美しい、などと言うことがある。対して、黄金は永遠の輝きを持つからこそ美しい。彼女は黄金の美しさを持っていると言えるのではないか。

 

桜はすぐに散ってしまう。短い時間しか愛せないという事実が我々に迫ってくるからこそ、我々は桜を今のうちに目一杯愛でておこうとするものだ。『世界の中心で愛を叫ぶ』とか『恋空』はどちらも見たことがないのだが、どちらも若くして恋人が亡くなる話らしい。人命の儚さというものは切に我々に迫ってくるものだ。

 

黄金はいつまでも輝いているが、永遠に眺めているにはこちらの寿命が足りなくなる。桜とは逆方向の形で、我々に人命の儚さを突きつける存在である。ヴァンパイアなど不死の存在が出てくる物語などは、たいてい不死人の周りの人間の命の短さが浮き彫りになる。物語の核となる人物が短命にせよ、長命にせよ、定型から外れていれば人間の定命をまざまざと見ることしかできないのだ。

 

キズナアイは去年からYoutubeに動画の投稿を始めた。年齢についてはインタビューで「見た目は16歳くらい」と述べている。おそらく、彼女は普通の人間から大きく乖離しているために、普通の人間と同じ時間感覚など思っていない。彼女は埒外の存在なのだ。これからどれくらいの長い時間、どれくらいの量、キズナアイは動画を投稿していくのだろうか。それは分からない。一つだけ言えることは、彼女は永遠に人間を愛し、追い求めるだろう、ということだ。人間と違って、彼女は現実の存在ではない。仮想空間の存在として、デジタルデータとしてはいつまでも存在し続けることができる。彼女は劣化しない。人間への興味も愛も、恐らく劣化しないだろう。我々は、彼女に熱烈な愛を向けられながら、死んでいく……。

 

キズナアイさんと付き合いたいです。

 

ほんの50年とか、死ぬまでのそれくらいでよいので。

彼女は実体フィリアであり現実フィリアなのだから、きっと歓迎してくれるのではないだろうか。彼女が知りたくて知りたくて死ぬほど勉強した現実の人間だ。実際に人間を目にしたらどんなに嬉しそうな顔をするだろう?想像するだけで楽しみだ……。

誰もが青春に悩むことだと思っていたが実はそうでもないらしい、恋愛についてのある種類の悩みについて

あなたにパートナーはいるだろうか?またはただ気になっている人、一方的に好きな人でもいい。いるだろうか?あなたは、その人のどんなところが好きなんですか?答えてみてほしい。

嘘か本当か分からない話なのだが、「相手のどこが好きなの?」とパートナーがいる人に聞いてみると、その質問によってそのカップルが将来別れてしまう確率はかなり高くなる、らしい。

その根拠はと言えば、例えば「かわいいからこの娘が好きなんだ!他に理由があるか!」と答える男であれば他にもっとかわいい子がいれば別れる理由ができてしまうから、とかそんな理由だそうである。(答えることができなかったとしたら、それはそれで興味深い。とりあえずその場で片割れに怒られそうではあるかな?)あんまり詳しい因果関係の説明ではなかったと思う。そもそも、いつどこで聞いた話なのだか全く覚えていない。

「特定の質問をするとカップルが別れる」というのはかなり曖昧で条件が難しいし、因果関係も遠い話だから信憑性は薄そうな話だ。そんなに人間が簡単な生物であるはずはないと見るのが適切だと思う。たぶん。もしかしたら単純なのかもしれないが。

しかし、この話が正しいかどうかは置いておいても、この話から必ず出てくるだろう、と個人的に思う悩みがある。
例えば、「顔が好きで付き合い始めた」という人にとっては「この娘の顔だけが目的で、同じくらい顔が好みならば誰でも良かったのか?俺は本当にこの娘を愛しているのか?」というような悩みだ。

別にどうでもよいことにくよくよ悩んんでいるなぁ、と簡単に言えるような悩みではない。ひとは大体の場合はパートナーの浮気が大嫌いで、それだけで破局に直結しうる重大な問題になるのだ。だから、「顔がもっといい人が他にいれば浮気をする」というような相手のサガは大抵のひとには好ましくないと思われ、実際に相手に貞淑さを要求するし、相手の事も気遣って対称的に自分も浮気をしないようにするのが人情だ。

ちなみに、顔やスタイルや年収やらの比較的生々しい要素でなくても、「性格がいいから好きになったんだ!」と言ったとしても同じ話になってしまう。あなたのパートナーが自分と同じような優しい性格の人を簡単に好きになってしまうビッチだったとしたら、やはり「同じような性格なら誰でも良かったんだ……彼女は特別に俺が好きなわけではなかった……」と悩むでしょ?(「言葉にはできない部分が好き」とか、そういう場合も同じだ。次に挙げるパターンとも似ているが)

じゃあ、さっき言った「好きな部分を全く答えられない場合」が真実の愛だ!ということになるかというと、それも全然良くない。「顔がいいという訳ではない。特にこれといったことはないのだが、好きなのだ」と答えた人がいたとしよう。その人は大した理由もなく人を好きになってしまうのであるから、当然他の人に対してであっても大した理由もなく好きになってしまう可能性をどうしても否定できないはずなのである。これも浮気一直線だ。

しかし、人間は実際に(たぶんそれほど多くは)浮気をしない。この単純な二分法(ある人の実在的要素が好きならば他の実在的要素を持つ人も好きになってしまうはずだし、特にある実在的要素が好きという訳でもないならば、他の人を好きにならない合理的理由もない)を、なんらかの細やかな思想によってくぐり抜けているのだ。

実際の個々人の細やかな思想の実装には、恐らく多種多様な推論の形式が存在する。難しい問題すぎて一般化した実装ができないからこそ、人の世に浮気はあるのだ!とか勢い余って断言いいかもしれない。あなたはどうだ?本当にその人が好きか?本当に?性格や顔が好きなだけでその人そのものが好きとは言えないのでは?

「俺は本当にあの子が好きなのか!?」というこの苦悩、みんな青春に味わうものだと思っていたけど、実はそんなことないの?なぁ、みんなも自分で深く考えたり、周りのカップルに聞いたりしてみてくれ。他人の思考に頼らない、完全にステゴロの原初の思考を見ることができる場合が多いから面白いよ。どんどん人間観察しようぜ。でもたまには、自分でじっくり考える価値のあることだと思うよ。青春にこれらのことで頭を悩ませたことがなかったのなら、答えが出るまで考えてみて欲しい。たぶん、簡単に出る答えで納得のいく答えなんか無いと思うが。(読者への挑戦)

孤独

親は俺のことを理解できずに迫害した。今でも同じだ。全く俺を理解できないままに自分が理解できる文脈に勝手に読み替えて俺を激しく非難する。俺は全く的外れなのだと言っているのだが、言葉が全く理解できないようなのだ。ただただ不毛だし疲れるし、いったい言葉はなんのためにあるのかと思ってしまうが、それはまぁいい。そんなことが問題なのではなく、実際に「こういう人間しか将来俺の周りに現れないならば、一生俺は一人でいい」と思っていたこと、それが実現するかしないかが大事なところだ。

本当に、そういう人間しか俺の周りに現れないのだとすれば、孤独こそ最も価値あるものだ。それに対して、もし心から理解し合える人間がこの世にいるのなら、その人間と生活を共にするために人生のリソースを割きたい。世界はいったいどちらになっているだろう?前者であっても絶望はしないが、どちらであるのかくらいは分かっていなければならない。

親と違って「話せる」人間は世間にたくさんいることは分かってきている。だけど、本当に理解し合える存在なのかは微妙なところだ。結局のところ程度問題で、本質的に人と人とは理解し合えないのだとすれば、俺は喜んで孤独でいたい。

言葉の通じない人と一緒にいることほど苦痛な事はない。「完全に理解し合える」ということを定義するならば、「完全に言葉が通じる」ということに、なるだろうか。そんなことはありそうにない。どんな人間同士でさえ、言葉のとり違いくらいは起こる。やはり程度問題なのだろうか。世間にいる「話せる」人たちは、親と同じ延長線上にいる存在なのだろうか?だとすれば悲しいことだけど、どうにもそうは思えない気がするのだ。俺はまだ孤独でいるべきか、いないべきか、迷っている。

お前頭がおかしくなってるよ

中学生ぐらいのことだっただろうか?精神科で睡眠導入剤を処方された。
父に連れられて行ったのだが、医師に睡眠導入剤あげるよと言われると「大量に飲まないように俺がしっかり管理する」と父が言った。医師は大量に飲んでも死なないから大丈夫ですよと言ったが、結局父が管理することになった。

そもそも、俺に睡眠導入剤など必要がなかった。起きたいときに起き、眠くなったら泥のように寝るだけなのに薬なんてどうして必要なのか。これ以上なく健全な睡眠を取っていた。医師も適当だよなぁと思った。貰った数日は飲んでいたが、飲んで少し経つと呂律が回らなくなぁ、くらいにしか思うことは無かった。普段から快眠なのでよくねむれる!とかは無かった。睡眠導入剤なんか飲まなくなった。

睡眠導入剤を飲まなくなって半年くらい経ったとき、どうしてだかすぐ眠る必要があったのだが眠れないということがあった。たまにそういう時あるよね?俺は睡眠導入剤のことを思い出し、父に「睡眠導入剤くれよ」と言いにいった。父は半年前のことなんて覚えていなかった。俺に興味なんて無かったのだ。ただ「子供のことを考えている」という体裁が欲しいだけだった。

「いやいや、俺が管理すると言っていたじゃないか。そこらへんにあなたが仕舞っておいたじゃないか」と俺が言っても、「そんなものは知らない」と答える。実際に少し俺が探してみても、見つからない。(後に出てきた。父も適当に乱雑にしまっていて、時間が経って棚の奥に入り込んでいた)

こんなのはおかしい。俺が言うと、「お前は頭がおかしくなっている」と父に言われた。怒りを通り越して心には死の直観があった。
俺は睡眠導入剤のことを完全に覚えていた。父は覚えていない。なぜ頭がおかしいと俺が言われなくてはならないのか?そうやって言われていたらそれこそ頭がおかしくなりそうだ……。俺は学校に言っていなかったから、精神科に連れていかれて、鬱病だとかなんとか言われた。だから頭がおかしいと言うことに父は抵抗がないのだ。

俺はおかしくなんかないんだ。本当にそこに睡眠導入剤があるんだ。信じてもらえなかった。こんなに単純なことなのに。

言葉やなにかで何かを証明するのはもはや不可能と感じられた。もう俺には何もできない。俺だけが俺の正気を知っていて、誰からも理解されずにただ頭がおかしいと言われる。人生を悟った気がした。努力ではどうにもならない。俺は誰にも理解されない。こんなに簡単なことでさえ、正しさを必死に主張しても「頭がおかしい」の一言で済まされる。一度精神科に連れて行かれたらそうなる。

精神科は家族に正しいか正しくないかはともかく何かの納得を与えるためのものであり、患者当人の苦しみをむしろ増幅する側面もある……と今でも信じている。母も同じだ。発達障害という言葉をいくら説明しようとも、迷信やら誤った推論やら歪んだ認知は全く抜けない。正しい情報なんて人によってはなんの意味もない。そんなものだ。「家族!仲間!」みたいな当時のジャンプ漫画が嫌いだった。そんな美しい家族なんてどこにもいない。あれは神話だ。美化して現実を覆い隠さないでくれ。苦しみを忘れるような娯楽じゃダメなんだ……。

今では誰にも理解されなくても明るく生きている。そういう術を俺は身に着けつつある。じゃあなんでこんな嫌なエピソードを思い出しては書いているのか?それが俺の青春だからだよ!

心理検査の結果待ちに思うこと

今は故郷の秋田に帰省中である。東京に戻ると1日後には帰省前に受けた心理検査の結果を聞くことになっている。この秋田にいる2週間ほどが、表向きには定形発達者でいられる最後の時期になるかもしれないということだ。

心理検査を受けたことを彼女に話した。「発達障害だなんてありえないと思う」と言われたけど、発達障害だともし分かったらフられるだろうか?そしたら泣くかもしれない。もし発達障害だったら言わないことにしようかな……。それもまずい気はする。迷うところだ。ちなみに母に話したらいつもどおり完全なる無理解と認知の歪みをぶつけられたので心が穏やかでなくなった。それは違うんだよと説明しても秒で聞く気ないでーす!みたいにそっぽを向かれたので来世はもっと良い親の元に生まれたらどうなるかな……とか思っていた。

発達障害だと打ち明けた時、彼女の顔が曇るかもしれないとか、すぐ起こるようなことを考慮しないならば、もし自分が発達障害だと分かったらテンションが上がると思う。逆に定形だとしたら、ちょっとがっかりかもしれない。なんでだ?

考えてみたけれど、それは俺が生半可には理解出来なさそうな変な人間や面白い人間を見るのが好きだからかもしれない。もし自分がそういう周囲の理解を得られないような人間だと分かったなら、俺のことを理解できるのは世界にこの俺だけ、という状況に近くなってくる。そしたらとても嬉しいだろう。こんな面白いコンテンツを、俺が独り占めしているってことになるんだから!独占欲が満たされる。俺は結構マニアな人間なので、好きな作家とか学者がいたら日常生活まで覗き込んで隅々まで見回してみたい!と思う。作品や論文となんの関係もなさそうなところまで隅々と。(好きな女の子や女性アイドルに対してそういうことをしたい、とかは思ったことがない。学者や作家を近くで見たことはあっても本当にストーキングしたことはない。倫理。)好きな学者の日々の挨拶やジョークをいちいち記録してアーカイブ化したい!というか、既に自分に関してはそれを楽しんでやっている。過去の自分を見るのが好き。自分の顔が好きとか、自分の性格が好きとか、そういう実在的要素に関するナルシシズムとは少し違う気がする。1週間前の自分は大好きだけど、現在の自分に対する強烈な好意みたいのはぜんぜん無い。話が逸れたなぁ。元の、俺の理解者が俺だけになったら嬉しいという話に戻りたい。まぁ要するに、青春をまさに送るものたちにとっては「理解者が欲しい!友達が欲しい!」みたいなのは切実な問題かもしれないけど、自分はそうではなくなってきたという話がしたいんだ。

大学に入るくらいまでは、俺は俺の理解者が世界のどこにも居やあしないと絶望し、日々苦しんでいた気がする。孤独、無理解、傷心、疲弊。それが退屈さと共にずーっと永遠に続くということに暗い気持ちになり本当に自殺を考えていた。何もかもうまく行かない。勉強もスポーツも友達関係も親子関係もうまくいかない。ゲームとか趣味のことですらできなくなっていた。ゲーム起動までできればまだすごく良い方で、起動して3秒くらいしか電源を入れたままにできなかったのだ。3秒の間に「これをやってもつまらないだろう。これをやってどうなる?これをやっても仕方がない」と瞬時に未来を計算し終わって悟ってしまう感覚が発生していた。ゲームでさえこれなのだから、教科書やノートを広げて勉強しようなんていう気にはなる訳がなかった。今でもそういう感覚を何に対しても薄く引きずっている気がする。当時は何もできず、ただ掛け値なく本当にただ気持ちよく布団で眠っていた。学校に通っている間はスポーツで筋肉がついていたのに、ずっと眠っていれば小さい老人みたいになる。顔も痩せる。体重はめちゃくちゃ落ちる。そんな感じだった。家には自殺用ヘリウムガスボンべとチューブが買って置いてあった。眠れない時にはそれのことを考えていた。本当は抱いてじっと見つめたかったが、それをやるほど元気でもなかった。ただ、会えない恋人のことを想うようにヘリウムガスボンベのことを想って、震えて枕を濡らしていた。俺にできることはそれだけだった。本当それだけ!世界に要素がそれだけだったので、孤独を感じるほかなかった。世界が寂しい。世界が乏しい。誰のことも理解できないし、誰にも理解されない。俺は一人でこの寂しさを抱えて生きる。誰とも共有なんかできない……。

と、大学に入るまでは思っていた。うん。

高校にいるころまで俺は、自分が世界で一番特殊で、学校の勉強もできないのに自分が世界で一番頭がよいのだと思っていた。だからこんなに毎日苦しくて嫌で吐きそうなのだと。大学に行ったらそんなことはなかったと分かった。つまらない人間も大勢いたけど、呆れるほど頭が良い人間も複数見つけてしまったのだ。権威のある学者が概念だけでなく本当にいるなんて聞いてない!俺より500倍くらい頭が良い同い年の人間がいるなんて理解不能だ!という感じだった。俺が全然特殊でもなんでもない凡俗な人間だということを理解した。俺が孤独であるのは、俺が実在的に特殊な性質を持つ人間だからではなかった。そして、それまでの人生を後悔した。もっと真面目に人生やってくればよかったな、と。俺は全然頭なんて良くなかったのだ。もっと勉強の積み重ねが必要だった。それに気づいただけでも、大学に来た価値はあったかもしれないが……。大学は無闇やたらに人を苦しめる機構が少ないし、多様な人間がいる良い場所だ。最初からこういう義務教育ならばどんなに救われただろう、と思わなくもない。

大学に来てアイデンティティみたいなものがめちゃくちゃに揺らいでしまった。俺は特殊な人間なのか?ということ。実は俺は絶対的に特殊な人間であり、俺だけがそれに気づいているからそれでよいのだが、それだけでは何の味もしないのだ。ちょっとでも俺が変な人間なら、ほんのすこし安心できる気がする。それで俺が発達障害ならいいな、という話に繋がる。俺はこの人間の一生をつぶさに見ることになるのだから、その人間が面白い人間で、簡単に理解できないような複雑で非定型なものでなければつまらないだろう?だって、「普通の人生でした」で終わったら面白いか?見どころのないドラマを見て、どうやって他のドラマと違う感想を述べる?特殊なことがない人生をどうやって他と区別し、自分のものだと心から思える?「発達障害」というラベルだって今では広く知れ渡ったものだけど、多少も救いにならないものではない。

分かったことは、理解者など自分以外にいるものではなくて、それが必然だということ。そして自分の理解者は自分だけで充分なのだということだ。こういう悟りは、高校生の頃までの俺にはなかった。そして、真に俺は孤独なのであり真に特殊なのであるということにも気がついた。高校生の頃だって自分のことを孤独で特殊だと思っていたが、今はレベルが違う。俺はどうあっても孤独で特殊なのだ。どうあっても孤独で特殊なのだから、それに泣いたりする必要はない。そうでないことなんてありえなかったのだから。そうなってくると問題なのはもっと小さなことになる。すなわち、孤独とか特殊とか大きいことは悩むことじゃないから、とにかく複雑で豊かで面白くて飽きない楽しい人生であれ!ということ。

なんかやたら抽象的で意味不明だったり矛盾したりしていることを書いてしまっている気がするが、俺には意味が分かるからいいや。過去のことを考えたり書いたりするのは楽しい。それがどうあっても特殊で味わい深いものに見える。そして、この文もいつか俺によって省みられ、楽しまれるに違いない。そうでしょ?悪文や誤謬、偏見やイデオロギーを後から充分に楽しんでよ。

さて、心理検査はどうなっているだろう。楽しみだ。ま、健常者だったらそれはそれで嬉しがってもよいだろうな。

〈追記あり〉ウォルターはサンドラの顔くらい覚えていたし愛していたかもしれないが、父は俺の顔を覚えていなかったし愛していなかったと思う

小学2年生くらいのことだったろうか。俺は運動会に出ていた。笑顔で駆け回っていた。父はビデオカメラを回していた。母は弁当を持ってきた。

家に帰って父はビデオカメラの映像をテレビに繋いで写し始めた。運動会が終わって日に焼けてヘトヘトの体で映像を見ていると、テレビには同学年のトウヤ君が写っていた。俺ではなかった。疲れていても少しさわやかではあった心が陰った。

 

「これは俺じゃないよお父さん」と言った。父は笑って「似ていたから分からなかった」と言った。母も「あれだけ人がいたのでは仕方ない」と父を擁護した。

言葉にできないタイプのモヤモヤした雲が高速で心の周りを回転していた。怒るべきではないか?と思っていたかどうかは忘れた。とにかくモヤモヤしていたのは確かだが。俺は何も言い返さなかった。疲れていたのもあったし、そのころの俺は不満を明晰な言語で表して表明できるほど言葉をうまく操ることはできなかったのもあった。何を言ってもどうしようもあるまいという諦めに数秒で達していたと思う。そもそも多数決で負けている。俺は良い子だった。多数決の内容を内面化していた……が、しきれていなかったようだ。今ふと、嫌な記憶として思い出してしまったのだからそうだろう。

 

俺は何の話をしてもマジにならないが、唯一親の話だけはマジになってしまうような気がする。たまにはマジになって、誤ることをためらわず意見らしきものを力強く述べてもいいのではないか。生殖とか、子どもとかペットとかの家族の話もそうかもしれない。そういう話はなんだか冷静になれない気がして嫌いだ。

 

父はなんにも俺に興味がなかったように思う。母もそうかもしれないが、母は興味が無いというより自分と違う人間を理解する能力が決定的にないだけで、そもそも父は興味がないことが俺を理解できないことに先立っていたように思う。

 

俺はいつしか不登校になった。学校から先生が来て、父は先生に言う。「こいつが何を考えてるのか分からない。私も辛いんです」と。そうだろう。顔の見分けもつかないくらい俺に興味なんかないんだから、そりゃあなんにも分からないだろう。

父は46歳くらいで俺を子に持った。ちなみに俺は一人っ子だ。父は俺を子に持ってからすぐ飲酒運転で交通事故を起こして会社をクビになり、それからずっと無職だった。母はずっと看護師として汗水垂らして働いている。無職だから俺は父が嫌いなわけではなかっただろう。単純に嫌いだった。ありあまる時間を、ただ嫌韓サイトを見て義憤を燃やすことに使っていた。地獄かよ?金だけは持っていたから、「育ててやったのは誰だと思ってるんだ」式の糞ファッキン語もよく用いた。俺になんて興味はなかった。俺にとって父はただ毎日家でネットを見て、毎日他のオッサンと酒を飲み、毎日俺に不愉快な言葉を浴びせるただ臭いだけの同居人の男だった。嫌いにならない理由がなかった。

 

あるとき、父は俺に「お前はおかしい」と言った。いつも語気荒く反論して、時には首を締めて顎を外して気絶させたり、包丁を持って追い掛け回され鼻血で呼吸できないまま外を裸足で走って逃げたりしている俺だったが、このシンプルな言葉を聞いたときはただそれだけで一瞬で涙が上がってきて反論できなくなり、さめざめと他の部屋に行って泣いていた。1時間くらいただ涙が出て止まらなかった。なぜこんなシンプルな言葉で俺が泣いたのか、今でも良くわからない。しかし、忘れることはない。無理解をこれ以上無く表明され、そしてこれから理解することもないし理解するために努力することもない、とも表明されたように俺には感じられたのだろうか。とにかく、とても短い言葉に反比例してとてつもなく大きな絶望を短い時間のうちに感じ、脂ぎっていて血の気が多かった俺でも女の子のような泣き方をした。俺だって親は特別なものだと思っていた。最後の味方だと思っていた。でも違った。俺には世の中に味方なんて一人もいないということを悟った。ああ、ずっと一人だ……。そんな気持ちだっただろうか?

 

今は悟っている。そもそも俺は一人だってことは、はじめから分かっているじゃないか。

人は独りを嫌う。一人で飯を食うことを「ぼっち」と呼んでことさらに寂しさを表現する。みんなで集まりたがって、ワイワイ騒ぎたがる。最初から人間は一人だ。二人である人間なんて見たことあるか?みんなそれに気付かないように、忘れたいように、みんなで集まって互いをダシにして現実を見ないようにする。別にそんなことしなくたってよいようなことをみんな有り難がるし、時には人に強制させたり、考えを押し付けたりする。違うんや。俺は一人だ。わかるか?俺は二人じゃない。

 

怪奇!!!!怪人二十面相!!!!!!!!!!!ただし相貌失認。み、た、い、なーーーーーーーーっ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

父は相貌失認だったのだ。だから俺の顔を見分けられなかった。発達障害だから会社もクビになるし、俺とのコミュニケーションは上手くいかなかったのだ。実はめちゃくちゃ息子のことを愛していた。そういうストーリー、どう?感動的?

 

心理検査を受けて、人の顔が描かれた絵を見せられた。「これになにか欠けているところはありますか?」全然分からなかった。俺も人の顔の見分けがつかないのかもしれない。もし俺が子どもを持つことになったとして、もし他の家の子どもを自分の子どもだと認識してビデオで写してきてしまったとしたら?ゾッとする。俺は俺を再生産することは絶対にしたくない。俺は幸福だけど、俺の幸福は俺のものなんだ。子どもくらい、子ども自身の幸せを享受してほしいじゃないか……。


〈追記〉父さんは二年前に死んだ。わりとあっさり死んだ。享年66歳。それなりに早く死んだが、まぁアホだったのでそうなるな、という感じ。

父さんは最後まで嫌な奴で、死ぬ直前までただでさえ看護師として働いている母を毎日病院に呼びつけ、意味もなく手間がかかるようなことばかり大量に母に頼み、アマゾンで100万円相当の買い物をして毎日大きなダンボール50箱程を家に送り、最後まで悪あがきをして死んだ。最後に良いやつだったと分かるラスボスみたいになるよりはよっぽどいい。一貫性があっていい。

わりかし早く死んでくれたので本人も周りも苦しまず済んだ。春休みに死んでくれたので葬式にも出れた。人が死んで嬉しいことなんであるもんだ、と思いながら葬式に出席。母が死んだら俺が喪主だ。今から面倒くさい。自分の葬式の準備くらいしてから死ぬのが日本人のマナーではないかね?

父が俺に残したものはなにもない。高尚な遺志も信念もない。なーんにもない。知恵も知識も授かってない。ダメ。全然何も無い。父のことなんかこのページに書いてあることが全てと言ってもよいくらい。それくらい空虚。

そしてこれを書き終わったら、もう本当に誰かに思い出されることは中々なくなる。父は俺の中で終わって、死ぬ。たぶん誰も父のことなんか気にしていない。それでよいだろう。特に悪名もないから立派だよ。お父さんさようなら!心置きなくこの文章を閉じたい。息子がきれいさっぱり父親に引導を渡すんだから、これ以上綺麗なことなんてない。


〈追記の追記〉

すごい嫌な文章になってしまった。ほぼ悪口しか書いてないじゃん!これだから家族の話はマジになってしまうと書いたのだ。でも本当に親父悪いやつだった。首を締めてアゴ外して病院送りにした時は爽快だった。こんなこと書くと暴力的だと思われるかもしれないが、俺だって必死に戦ったんだ。本当に俺は優しい男なんだ。本当に。でも親父は許せなかった。

さがさないでください

 帰ってきてなんの意図もなくただ部屋を見やると、「さがさないでください」とだけ書かれた紙が、机の上に乗っていた。
 一体なにを探せというのだろう?普通、「さがさないでください」というのはいいとこ中学生までの子どもが家出する際のお決まりの文句として紙に書き残していくものだろう。しかし、僕には子どもなんかいない。小さい子どもというだけでなく、一緒に生活する子どもというだけでなく、どのような子どもも僕は持っていないし、隠し子がいるとかそういう心当たりなんかもない。
「さがさないでください」という文字は定規を使ってカクカクに書かれている。筆跡を隠すためだろうか? 恐怖を読む相手に与える文字だ。僕はこの部屋に何者かが侵入したのではないかと考え、六畳一間を見回した。ただ本が積まれただけの部屋。なかなか高い専門書も積まれているが、盗まれた気配はない。乱雑に積まれたそのままの配置だ。少しのお金が入った通帳も盗まれた気配はない。
 まったく気味が悪い。研究室とアパートの自室を行き来するだけの毎日を送る、対して値打ちのあるものも持たないしストーカーされるほど誰かに好かれるとも思えない僕だぞ。
 そんなやつの部屋に入り込んで「さがさないでください」とだけ書いた紙だけ置いていくやつなんて、いるとは到底考えられない。もしそんなことをして楽しむやつがいたら、本物の男(女かもしれないが、それは無さそうだろう)と認めてはやるが。
 自分はセキュリティ意識が高いとは言えないが、窓の鍵と玄関の鍵くらいはちゃんと締めていたし、破られた様子はない。まさか僕の数少ない友人の悪ふざけということもあるまい。こんな最悪のセンスの悪ふざけをするピッキングが特技の暇で奇特な友人など、僕にはいない。いたら面白いだろうが。
 警察に言うべきだろうか?いや、こんなこと報告されたって警察も困るだろう。下手したら頭の病院を勧められる。実害はないことだし、ここは泣き寝入りをしておこう。仮にそんなやばいやつが本当にいたとしたら、それはそれで面白いじゃないか。防犯意識のかけらもない考え方だが、とりあえずはそう思っておこう。誰かが特に意図せずともなにかの拍子にこの紙が机に落ちたとか、そういうことも下手したらあるかもしれない。残念ながら僕の想像力では蓋然性が高そうな例などまったく考えもつかないが、身に起こった不思議なエピソードとしてひとつ携えておくのも悪くはない。
 放っておいたらそのことばかり考えてしまいそうになるので、意図して他のことをする。ちゃんと生活しなければ。飯を食う、風呂に入る、歯を磨く。そんな風に生活をやれば、体力のない僕はきっとすぐに何もできなくなって、やがて眠りにつく。紙をクシャクシャに丸めて、ダーツの要領でゴミ箱にシュートする。運が良かったので成功した。なにもかも、運だけが良くて成功したらいいのになぁ。そういえば運ってなんのことだろうなぁ。と、他のことを考えながら生活をやって、本当に眠くなってきたので眠ることにした。紙が誰によってどのように置かれたか考えるよりもずっと良かったということだろう。多分。

 朝、大学の三限に間に合うギリギリの時間に起きて朝飯(時間的には既に昼だが)を食いもせず歯だけ磨いて荷物をまとめていると、不意にまた机の上に「さがさないでください」を発見した。
 それを見つけた途端に僕としては珍しくシリアスな心情になる。こいつは恐ろしくなってきた。昨日の段階では呑気なものだったなぁと思えてくる。ゴキブリを見つけたときほどビクついて、しかしそれとは比べられないほど深刻なくらい朝から栄養のない頭が回転している。僕ははここで寝ていたんだぞ。どうしてまたこんな紙が机の上に置かれるなんてことがある? ゴミ箱を覗いたら昨日の紙はそのままゴミ箱にクシャクシャに丸まっていた。今日の紙は違う紙だ。また、新しい紙か。
 そう思っていると既に三限に間に合わない時間になっていた。相当手際よく準備してもギリギリ三限に間に合うくらいの時間に起きていたから、多少びっくりしただけでそういう時間になってしまう。持ち上げかけていたリュックを早々に床に置いて、脱力してもう一度布団に転がった。俺の三限を奪いやがって。許さんぞ。と思い、今度は紙をクシャクシャにせずそのままにしておいた。指紋とか、そういうのが出るかもしれない。警察に説明するのは想像するだけで大変そうだが、考えておかなければならないだろう。面倒だ。というか、僕の頭がおかしくなったんじゃないか? その公算も高い。大学に行ったら僕は頭がおかしくなってないか、と人に聞いてみようか。おかしな話だ。自分の頭がおかしくなっていても自覚なんかなかなかできない気がするが。
四限が始まるまで何をしていよう。目を瞑って考える。たっぷり寝たから、二度寝はいらないか? 起きて大学の学食に行き昼飯を食べてから講義を受ける、というのもたまには良いかもしれない。目を覚ましたばかりのだるい体を再び起こす前に目を開けると、顔の上に何かが乗っていた。
「さがさないでください」
 なんなんだ! 探さないよ! もう僕はびっくりなんかしていなくて、苛立ちのようなものを覚えていた。まずい。これはおかしい。なんだかもう大学に行くとか、そういう話じゃなくなってきた。僕、疲れてんのかな。たっぷり寝てるし、たっぷり食べている。たっぷり運動もしているし、たっぷり水も飲んでいる。たっぷり頭も使っているし、たっぷり性欲も満たしている。もう僕に何ができるっていうんだ?
 ああ、なんだか全てにやる気がなくなってしまった。いつもは食べない甘いものをたっぷり食べたくなってきた。酒もたっぷり飲みたい。寝ないでゲームをしていたい。時間をたっぷり使ってなんの得にもならない陳腐なことがしたい。研究やら健康やら予定やら未来やら、そんなものは一切考えたくない。ただ頭で考える前に体が求めたものだけを忠実に満たしていきたい。
「みつけてくれてありがとう」
 口がぼそりと呟いた。構うものか。今からてめえを愛で回して、飼いならしてやるぞ。まずはハーゲンダッツを二十個買ってきてやる。見たことはあるが食ったことはない。俺はやるぞ。