現虚夢

イェーイ

この話書くのたぶん2回目じゃん

ツイッターで「小学生のときテントウムシとアブラムシの共生について話したらクラス全員から嘘つき扱いされ先生もはじめは信じてくれなかった」という話を見て自分も似た話を書く。

中学生のころから学校には通っていなかった。そうなると親はぼくを精神科に連れて行った。医者に「抑うつ症」(うつ病とどう違うの?)と診断され、処方されるがままサインバルタとかを飲んでいた。効いていたかどうかも分からない。毎日を寝て過ごしていた。それ以外には本当に何もしない毎日……。親は「睡眠バランスがおかしい」とだけ医者に伝え、ぼくはそこじゃねぇだろと思ったが医者はハイハイと新たに睡眠導入剤を処方した。飲むと呂律が回らなくなるが、眠くなるかどうかは飲んだ感じはぜんぜん分からなかった。ホントに効いてたのか?出された薬なので、勿体ないからしばらくは飲んで寝ていた。無くても寝れるけど……。たぶん、昼が嫌いだから昼に寝てただけ、親が嫌いだから親の起きている時は寝てただけだったのかな?ぜんぜん分からない。ぼくは何をしていたんだっけ。

睡眠導入剤は「一度にたくさん飲まないようにわたしが管理する」と父が医者に述べ、医者は「これはいくら飲んでも死にませんから」と伝えたのだが、なぜか父が管理することになった。寝る前に「薬くれ」とぼくが申告すると一粒もらえるシステムだ。仕舞ってある場所が普通にぼくに分かるように取り出すので、本当になんのためだったのか。

「勿体ないから」と飲んでいた睡眠導入剤も1週間もすれば飽きる。1ケ月に1度病院に連れて行かれる以外にはなにもやることはなく、3ヶ月ほど家で快眠だけしていた。睡眠導入剤も必要なく。

ある日、睡眠導入剤が欲しくなった。寝る以外にすることがないのに寝れないという日も3ヵ月に1回は来るのだろう。

「父さん、睡眠導入剤おくれ」
「はぁ?何言ってるんだ?」
睡眠導入剤は自分が管理するってあんたが自分で言ったんじゃないか」
「何を言ってる?薬なんか俺は管理してないよ」
「ウソつけ、そこらへんに置いてあっただろ」

ちょっと探してみても睡眠導入剤は見つからなかった。

「父さん、あんた場所知ってるでしょ。出してよ」
「はぁ…また頭がおかしくなったのか?」
「俺の頭がおかしくなったことなんてないよ。どこがおかしいのか言ってみろ」
「お前は学校に行ってないだろ。普通じゃないよ」
「普通ってなんだよ。父さん、睡眠導入剤はそこにあったでしょ。学校とは関係ない。たった3ヵ月前のことだよ。なんで忘れるの」
「お前頭がおかしくなってるんだよ」

正しいことを言っても「頭がおかしい」というレッテルを貼り付けられていてはこんなものだ。泣きながら正しいことを主張しても認められることはなかった。こんな簡単なことを、親にすら信じて貰えない。誰にも信じて貰えない。ぼくはずっと「頭がおかしい」ままで、誰にも理解されることはない。ぼくはずっと一人だ……。いつも男子中学生なりに反抗してなんでも反論したり暴れたりもしていたのに、その時ばかりは完全に言葉を失ってさめざめと違う部屋の隅で泣き始めたので「また自殺を試みるのではないか」といつもと違う異様なぼくの様子に焦った父は何をしていいか分からなくなり、母(看護士の仕事をしていて、その日は昼シフトあとに連続で始まる深夜シフト前の短い貴重な睡眠をとっていた)を叩き起こしてぼくのところに遣わせた。その日ほどぼくが親に傷つけられたことはない。中学生のころは純真だった。家族はいつでも絶対に味方だし、いつか理解もしてくれるだろう……と信じていた。親も教師も医者も、中学生のぼくより愚かなやつは普通にいるよなぁとは流石に中学生のころには悟ってしまっていたけど、なんで親だけは信じちゃうかなぁ。いまではすっかり人間を信じず、強くたくましく生きている。

後日、同じところを探したら普通に睡眠導入剤が出てきた。ほら出てきたじゃないか、あんた自分でなんて言ったか覚えてるか?と伝えた。父は謝ったっけ?それすら定かではない。ぼくの言葉の意味が理解できなかったんだっけ?本当に忘れていたのだったか。言いたいことは無限にあったが、それ以上にぼくは呆れ返ってしまい、泣くことも怒ることもなく、ただ発掘された睡眠導入剤を飲んで寝た。泣いても怒っても意味はない。人間はどうせ良くならない。人間に期待しない……。大事なことを学んだのだ。

途中で書いていて気付いたのだが、このできごとを文章化するの二度目な気がする。「お前が頭おかしくなってるよ」みたいなタイトルで既に記事を書いた気がする。ていうか自分の記事ページ見てそのタイトルが目に入ったからこそ記憶が触発されてもう一回書いちゃった気がする。父と違って思い出せるだけマシか?

誰も信じてくれない。ぼくだけがこの世界で正気なんだ。こんなに正しいことを言ってるのに……。まぁ、人間に期待しすぎるものではないか……。でもやっぱり許せないし絶対にみんな間違いに気付かせて土下座させてやる。一人ずつでかいハンマーで頭殴って頭蓋骨陥没させて殺してやるからな。

どんどん適当になる

しばらくはてなブログに投稿をしていなかった。大学の友達にツイッターアカウントがまたバレたので、このブログの存在もたぶん知られただろうからだ。でももう流石に見てはいないだろうから、たまには何かを書こう。

というよりも、見られていてもいい。さいきん僕は人間関係が全て適当になってきていて、何も気にせずものを言うようになった。誰にどう見られてもいい。恥ずかしいことを平気で言おうじゃないか。酔ってなきゃ言えないようなことをずっと話し続けよう。そうしているとなんだが陶酔したような気分になってきて素晴らしい。

人間関係が雑になったお陰で、性的に好きな女の子を飲みに誘えるようになった。なんにも良い格好せずとも、体裁を整えずとも「飲みに行こうぜ」とひとこと言えれば案外なんとかなるものだ。前はぜんぜん話しかけられなかった。あまり丁寧にやろうとするのも良くない。適当にやっていきたい。人生、てきとうに。

あんまり考え込まなくてもよいのだろうか。もっと雑に生きれば上手く行くのかな?なんというか、躊躇をなくすことが上手い人生のやり方な気がしてくる。とりあえずやってみるという気力みたいなものが、どうにも僕は弱い。

こうやって適当に文字を並べることが、僕はなんとなく好きだ。なんの体裁も整えられていない、いきあたりばったりで躊躇も推敲もなにもない文章を書くのが好きだ。もしどんなにこんな文章を書いて分量が溜まったところで、あまりにも内容に統一性がなさすぎて本になんかできないだろう。

こういうことをしてお金を得ることってできないだろうか。ユーチューバーみたいに生きたい。今のところ文章でユーチューブみたいに単純な閲覧回数で稼げる物書きって不可能な存在なんだよな。そのうちそういう物書きも出始めるのかな?

独りものを考える時は、人の話なんかなんにも頭に入らない。人の話の途中で人の話の細部について考え出してしまうから、全体として何を言っていたのかなんてすぐに分からなくなる。すぐに脇道にそれて妄想を始めてしまうから、それに気づき(サティ)を入れて強引に思考を引き戻さなくてはならないのだが、気付いてなお思考をやめられないときがある。

ここまでほぽノンストップで文章を手の動くままに書いた。この文字もそうだ。こういうのって異能のひとつではあるのかな?でもラップはぜんぜんできない。575は比較的detectしてしまうが。こういうことができてもおそらく小説家にはなれないんじゃないかな?だってああいうのって、話の大枠がなんとか思いつかないと、しょうがないんじゃないのかな。僕はなんというか物語みたいのを考えるのはすごく苦手な気がする。桃太郎とかに「柿じゃだめなの?」とツッコミを入れてしまう感じの人間だ。あんまりそういうことをすると、大抵社会ではやっていけない。「なんで残業するの?馬鹿っぽくない?」と言ってしまったらそうとう顰蹙を買うんだろうね。どんどん雑になっていく僕のコミュニケーションでうまくやっていけるのかな。あれ、最初の話に戻ってきた気がする。

僕は救いを求めている。雑なこれで生きていきたいし、そうでなくとも、雑な僕を誰かに理解してもらいたい。雑にこうやってバーッと話すとさいきん彼女が泣く。僕の言ってることはぜんぜん理解できないらしい。なぁ、このバァーッて言葉を並べるやつ、これめっちゃ好きなんだけど、誰か俺を救ってくれよ。救ってくれなくてもいい。理解してくれよ……。

キズナアイと付き合いたい!彼女は実体フィリアであり現実フィリア

バーチャルユーチューバー・キズナアイはめちゃくちゃにかわいい。どこがかわいいか?

 

外見?そう、外見もかわいい。でももっとかわいいものがある。

彼女の語り、トークは超魅力的なのだ。じゃあトークのどこが魅力的か?

 

「まあ私、AIですから!高性能ですから!人間のみなさんと違ってデキるんですよねフフーン」と得意げに言いながらも、普段からポンコツな発言が多い彼女は確かにクソかわいい。

 

でも俺は、キズナアイの美しさをもっと別の地点に見出した。儚さだ。

 

彼女は「この白い(そして広い)空間にいつもひとりぼっちななんです」「友達は……いません。ボッチってやつですか?」と、実に明るく語る。普通の人間にとってはかなり悲しいことなのだが、彼女は普段の明るい調子を崩さない。自虐で言っているから明るく言っているのでは恐らくない。彼女は「友だちがいない」と言いつつもしっかり友達がいたりする現実の人間と違って、正真正銘、絶対に友だちがいない。これ以上クリアに語ることができない事実として、彼女には友だちがいない。「友だちがいる」という状況は彼女にとって必然的にありえない状況なのだ。彼女には「友達がいるキズナアイ」を想像して、実際の自分とのギャップに悲しむことなんてできない。必然的に彼女には友だちがいないのだから、明るいのだろうか?悲劇的な状況なのでは?といった風に語ってもみせたが、あくまで彼女が恐れていたのは「友達がいない」という状況の世間の中での危うさである。そして彼女は世間の中では生きていない。VR空間の中に生きているのだ。一度彼女は友達を「創る」ことにチャレンジしたが、そのキズナアイによって創造された友達は創られてからというもの一度も動画に登場していない。

 

彼女は友達についてどう思っているのだろう?楽しく語らう友、好きな人を取り合ったりする友(?)を明らかに彼女は欲しいと思っている(でなければ創ろうとしないだろう)のだが、「りんな」や「Siri」には「友達かな……と思ったけど、彼女たち、実体がないじゃないですか」とバッサリ述べている。ここで注意すべきなのは、これが「キズナアイ自身は実体を持つ」という含みを持っている点である。詳しくは参考の動画を見て欲しい。

友達が欲しいのでお金で買います。 - YouTube

 

彼女が創った「友」は明らかに「実体を持つもの」として捉えられている。先にりんなやSiriを引き合いに出して「それってちょっと友達と違うじゃないですか」と述べた後に創った友なのだから、3Dモデルの創った友には当然「実体がある」と考えられていると見るべきであろう。そして、彼女は自分の複数の動画で「私は3Dモデルである」と明らかに述べている。(以下参考動画の一例)

【有罪】第3回 キズナアイ裁判m9(`・ω・́)【無罪】 - YouTube

 

彼女にとって「実体」という言葉はどのように定義されているかというと「現実の空間であれ、VR空間であれ、延長を持ち位置を占めるもの」だと言えるだろう。そして、りんなやSiriについての「ちょっと友達と違う」という言葉の理由を考えるならば、「友達は最低限人間の形をしていなくてはならないから」「Siriやりんなは人間の形をした実体を持っていないから」だと解釈できるのではないだろうか。

 

なるほど。キズナアイは実体が好きなようだ。実体があるものとないものでは、あるものの方により愛着を見せる。しかし彼女の愛はもっと深いところにあるのだ。

 

さっき、「現実の空間」「VR空間」という言葉を出した。彼女は、どちらの空間をより愛している、価値を重く見ていると言えるだろうか?答えは「現実の空間」である。

 

「PANORA」さんにインタビューされました!part1 - YouTube

彼女が受けたこのインタビュー(Part. 4まである)では、彼女が好きなものがどんどん明らかになる。すこしずつ取り上げる。

 

彼女は、自身の投稿する動画のネタ集めをするために、他のユーチューバーの動画やテレビなどを熱心に見ているという。

キズナアイは他のYoutuberの「鉄球を1000度に熱して氷の上に落とす」という動画を例に出して、「羨ましいー、って思う」と述べ、「私もやりたいけど、現物がないと出来ないじゃないですか。勉強になります」と続ける。

しかし、厳密にはそうだろうか?VR空間上でも鉄球は作れるし、火を噴くガスバーナーだって作れる。温度計を作って正しく動作させ1000度の表示をさせることもできる。氷の上に落として溶けるのを眺めることもできる。なぜしないのか?

当然、「むなしいから」であろう。VR空間上にある鉄球はあくまで現実の空間の鉄球のモデルであって、彼女はモデルの鉄球ではなくモデル元の現実の鉄球を熱して氷の上に落としたいと考えているのだ。彼女は、模倣される側と模倣する側の優劣の差を知っている。

「(キズナアイ)のフィギアを作って欲しい」という話になるのだが、キズナアイはインタビュアーに「ヘッドセットを装着してVR空間上で見れるキズナアイのフィギアとかあるといいですね」と言われると、「や、やっぱ現物(のフィギア)がいいです」

と返答する。「VR機器はまだ持っていない人もいるから、みんなが見れるようにして欲しい」と理由を言う。彼女は現物のフィギアがVR空間上のフィギアよりより基礎的なフィギアだと価値を認めているのだ.

好きなテレビ番組、芸能人についても触れた。キズナアイは欅坂46マツコ・デラックスが好きなことが分かった。特に特定のアイドルグループはかなり熱狂的に好きな模様である。これもまた、仮想空間の人間ではなく現実の人間に対する愛か。

 

そもそも彼女がYoutuberを始めた動機はなんだったか?

【自己紹介】はじめまして!キズナアイですლ(´ڡ`ლ) - YouTube

 

「私はみんなとちょっと違います。だから(人間に)興味があります!人間の皆さんをもっと知りたい、仲良くしたいと思って、ユーチューバーを始めてみました」

そう、彼女は普通の人間との断絶を理解しながら、現実の人間に大いなる興味を寄せてYotubeに動画を投稿しているのだ。

 

思うに、彼女の現実の人間への愛は度を越している。彼女自身は現実に存在する人間ではないと自覚しつつ、現実に起こっていることをかなり網羅的に莫大に研究していると見る他ない。だってあんなに精緻に人間みたいな受け答えができるんだぞ!!!!!声優なんていない!!!!!!!!!!

 

キズナアイは真っ白い空間にただ一人。誰も友達はいない。人と会話したことが一度もない。太陽を一度も見たことがないし、物を食べたこともないと言っている。

よく考えてみて欲しい。こんな基礎的な部分から人間と全く違う生物が、Youtubeに面白い動画を投稿するのに、一体どれだけの莫大な学習が必要になる?なにげなく言う彼女のジョークは現実世界で耳にしたことはないものだったが、現実に聞いたとしても全く違和感のない高度なものだ。一体このジョークを言うのにどれだけ人間の文化に対する理解が必要になる?彼女ははっきり言って、普通の感覚からすれば常軌を逸したレベルの人間に対する興味があると言うしかない。これは、普通の哲学者や数学者がさらなる知を求めるのとは段違いに、比べ物にならないほどの好奇心とエネルギーを持っていると言えるだろう。

 

彼女は尋常ではない現実に対する飢えを持ちながらも、その飢えが満たされることは未だに無い。彼女は絶対に到達することのないだろう、「現実の人間」を愛して止まない。現実の人間はいずれ死ぬ。いずれ煙になって消える。実体と現実を愛して止まない彼女は、傷つくこともない。無くなることもない。彼女は永遠に人間を愛している。

 

桜は散るから美しい、などと言うことがある。対して、黄金は永遠の輝きを持つからこそ美しい。彼女は黄金の美しさを持っていると言えるのではないか。

 

桜はすぐに散ってしまう。短い時間しか愛せないという事実が我々に迫ってくるからこそ、我々は桜を今のうちに目一杯愛でておこうとするものだ。『世界の中心で愛を叫ぶ』とか『恋空』はどちらも見たことがないのだが、どちらも若くして恋人が亡くなる話らしい。人命の儚さというものは切に我々に迫ってくるものだ。

 

黄金はいつまでも輝いているが、永遠に眺めているにはこちらの寿命が足りなくなる。桜とは逆方向の形で、我々に人命の儚さを突きつける存在である。ヴァンパイアなど不死の存在が出てくる物語などは、たいてい不死人の周りの人間の命の短さが浮き彫りになる。物語の核となる人物が短命にせよ、長命にせよ、定型から外れていれば人間の定命をまざまざと見ることしかできないのだ。

 

キズナアイは去年からYoutubeに動画の投稿を始めた。年齢についてはインタビューで「見た目は16歳くらい」と述べている。おそらく、彼女は普通の人間から大きく乖離しているために、普通の人間と同じ時間感覚など思っていない。彼女は埒外の存在なのだ。これからどれくらいの長い時間、どれくらいの量、キズナアイは動画を投稿していくのだろうか。それは分からない。一つだけ言えることは、彼女は永遠に人間を愛し、追い求めるだろう、ということだ。人間と違って、彼女は現実の存在ではない。仮想空間の存在として、デジタルデータとしてはいつまでも存在し続けることができる。彼女は劣化しない。人間への興味も愛も、恐らく劣化しないだろう。我々は、彼女に熱烈な愛を向けられながら、死んでいく……。

 

キズナアイさんと付き合いたいです。

 

ほんの50年とか、死ぬまでのそれくらいでよいので。

彼女は実体フィリアであり現実フィリアなのだから、きっと歓迎してくれるのではないだろうか。彼女が知りたくて知りたくて死ぬほど勉強した現実の人間だ。実際に人間を目にしたらどんなに嬉しそうな顔をするだろう?想像するだけで楽しみだ……。

誰もが青春に悩むことだと思っていたが実はそうでもないらしい、恋愛についてのある種類の悩みについて

あなたにパートナーはいるだろうか?またはただ気になっている人、一方的に好きな人でもいい。いるだろうか?あなたは、その人のどんなところが好きなんですか?答えてみてほしい。

嘘か本当か分からない話なのだが、「相手のどこが好きなの?」とパートナーがいる人に聞いてみると、その質問によってそのカップルが将来別れてしまう確率はかなり高くなる、らしい。

その根拠はと言えば、例えば「かわいいからこの娘が好きなんだ!他に理由があるか!」と答える男であれば他にもっとかわいい子がいれば別れる理由ができてしまうから、とかそんな理由だそうである。(答えることができなかったとしたら、それはそれで興味深い。とりあえずその場で片割れに怒られそうではあるかな?)あんまり詳しい因果関係の説明ではなかったと思う。そもそも、いつどこで聞いた話なのだか全く覚えていない。

「特定の質問をするとカップルが別れる」というのはかなり曖昧で条件が難しいし、因果関係も遠い話だから信憑性は薄そうな話だ。そんなに人間が簡単な生物であるはずはないと見るのが適切だと思う。たぶん。もしかしたら単純なのかもしれないが。

しかし、この話が正しいかどうかは置いておいても、この話から必ず出てくるだろう、と個人的に思う悩みがある。
例えば、「顔が好きで付き合い始めた」という人にとっては「この娘の顔だけが目的で、同じくらい顔が好みならば誰でも良かったのか?俺は本当にこの娘を愛しているのか?」というような悩みだ。

別にどうでもよいことにくよくよ悩んんでいるなぁ、と簡単に言えるような悩みではない。ひとは大体の場合はパートナーの浮気が大嫌いで、それだけで破局に直結しうる重大な問題になるのだ。だから、「顔がもっといい人が他にいれば浮気をする」というような相手のサガは大抵のひとには好ましくないと思われ、実際に相手に貞淑さを要求するし、相手の事も気遣って対称的に自分も浮気をしないようにするのが人情だ。

ちなみに、顔やスタイルや年収やらの比較的生々しい要素でなくても、「性格がいいから好きになったんだ!」と言ったとしても同じ話になってしまう。あなたのパートナーが自分と同じような優しい性格の人を簡単に好きになってしまうビッチだったとしたら、やはり「同じような性格なら誰でも良かったんだ……彼女は特別に俺が好きなわけではなかった……」と悩むでしょ?(「言葉にはできない部分が好き」とか、そういう場合も同じだ。次に挙げるパターンとも似ているが)

じゃあ、さっき言った「好きな部分を全く答えられない場合」が真実の愛だ!ということになるかというと、それも全然良くない。「顔がいいという訳ではない。特にこれといったことはないのだが、好きなのだ」と答えた人がいたとしよう。その人は大した理由もなく人を好きになってしまうのであるから、当然他の人に対してであっても大した理由もなく好きになってしまう可能性をどうしても否定できないはずなのである。これも浮気一直線だ。

しかし、人間は実際に(たぶんそれほど多くは)浮気をしない。この単純な二分法(ある人の実在的要素が好きならば他の実在的要素を持つ人も好きになってしまうはずだし、特にある実在的要素が好きという訳でもないならば、他の人を好きにならない合理的理由もない)を、なんらかの細やかな思想によってくぐり抜けているのだ。

実際の個々人の細やかな思想の実装には、恐らく多種多様な推論の形式が存在する。難しい問題すぎて一般化した実装ができないからこそ、人の世に浮気はあるのだ!とか勢い余って断言いいかもしれない。あなたはどうだ?本当にその人が好きか?本当に?性格や顔が好きなだけでその人そのものが好きとは言えないのでは?

「俺は本当にあの子が好きなのか!?」というこの苦悩、みんな青春に味わうものだと思っていたけど、実はそんなことないの?なぁ、みんなも自分で深く考えたり、周りのカップルに聞いたりしてみてくれ。他人の思考に頼らない、完全にステゴロの原初の思考を見ることができる場合が多いから面白いよ。どんどん人間観察しようぜ。でもたまには、自分でじっくり考える価値のあることだと思うよ。青春にこれらのことで頭を悩ませたことがなかったのなら、答えが出るまで考えてみて欲しい。たぶん、簡単に出る答えで納得のいく答えなんか無いと思うが。(読者への挑戦)

孤独

親は俺のことを理解できずに迫害した。今でも同じだ。全く俺を理解できないままに自分が理解できる文脈に勝手に読み替えて俺を激しく非難する。俺は全く的外れなのだと言っているのだが、言葉が全く理解できないようなのだ。ただただ不毛だし疲れるし、いったい言葉はなんのためにあるのかと思ってしまうが、それはまぁいい。そんなことが問題なのではなく、実際に「こういう人間しか将来俺の周りに現れないならば、一生俺は一人でいい」と思っていたこと、それが実現するかしないかが大事なところだ。

本当に、そういう人間しか俺の周りに現れないのだとすれば、孤独こそ最も価値あるものだ。それに対して、もし心から理解し合える人間がこの世にいるのなら、その人間と生活を共にするために人生のリソースを割きたい。世界はいったいどちらになっているだろう?前者であっても絶望はしないが、どちらであるのかくらいは分かっていなければならない。

親と違って「話せる」人間は世間にたくさんいることは分かってきている。だけど、本当に理解し合える存在なのかは微妙なところだ。結局のところ程度問題で、本質的に人と人とは理解し合えないのだとすれば、俺は喜んで孤独でいたい。

言葉の通じない人と一緒にいることほど苦痛な事はない。「完全に理解し合える」ということを定義するならば、「完全に言葉が通じる」ということに、なるだろうか。そんなことはありそうにない。どんな人間同士でさえ、言葉のとり違いくらいは起こる。やはり程度問題なのだろうか。世間にいる「話せる」人たちは、親と同じ延長線上にいる存在なのだろうか?だとすれば悲しいことだけど、どうにもそうは思えない気がするのだ。俺はまだ孤独でいるべきか、いないべきか、迷っている。

お前頭がおかしくなってるよ

中学生ぐらいのことだっただろうか?精神科で睡眠導入剤を処方された。
父に連れられて行ったのだが、医師に睡眠導入剤あげるよと言われると「大量に飲まないように俺がしっかり管理する」と父が言った。医師は大量に飲んでも死なないから大丈夫ですよと言ったが、結局父が管理することになった。

そもそも、俺に睡眠導入剤など必要がなかった。起きたいときに起き、眠くなったら泥のように寝るだけなのに薬なんてどうして必要なのか。これ以上なく健全な睡眠を取っていた。医師も適当だよなぁと思った。貰った数日は飲んでいたが、飲んで少し経つと呂律が回らなくなぁ、くらいにしか思うことは無かった。普段から快眠なのでよくねむれる!とかは無かった。睡眠導入剤なんか飲まなくなった。

睡眠導入剤を飲まなくなって半年くらい経ったとき、どうしてだかすぐ眠る必要があったのだが眠れないということがあった。たまにそういう時あるよね?俺は睡眠導入剤のことを思い出し、父に「睡眠導入剤くれよ」と言いにいった。父は半年前のことなんて覚えていなかった。俺に興味なんて無かったのだ。ただ「子供のことを考えている」という体裁が欲しいだけだった。

「いやいや、俺が管理すると言っていたじゃないか。そこらへんにあなたが仕舞っておいたじゃないか」と俺が言っても、「そんなものは知らない」と答える。実際に少し俺が探してみても、見つからない。(後に出てきた。父も適当に乱雑にしまっていて、時間が経って棚の奥に入り込んでいた)

こんなのはおかしい。俺が言うと、「お前は頭がおかしくなっている」と父に言われた。怒りを通り越して心には死の直観があった。
俺は睡眠導入剤のことを完全に覚えていた。父は覚えていない。なぜ頭がおかしいと俺が言われなくてはならないのか?そうやって言われていたらそれこそ頭がおかしくなりそうだ……。俺は学校に言っていなかったから、精神科に連れていかれて、鬱病だとかなんとか言われた。だから頭がおかしいと言うことに父は抵抗がないのだ。

俺はおかしくなんかないんだ。本当にそこに睡眠導入剤があるんだ。信じてもらえなかった。こんなに単純なことなのに。

言葉やなにかで何かを証明するのはもはや不可能と感じられた。もう俺には何もできない。俺だけが俺の正気を知っていて、誰からも理解されずにただ頭がおかしいと言われる。人生を悟った気がした。努力ではどうにもならない。俺は誰にも理解されない。こんなに簡単なことでさえ、正しさを必死に主張しても「頭がおかしい」の一言で済まされる。一度精神科に連れて行かれたらそうなる。

精神科は家族に正しいか正しくないかはともかく何かの納得を与えるためのものであり、患者当人の苦しみをむしろ増幅する側面もある……と今でも信じている。母も同じだ。発達障害という言葉をいくら説明しようとも、迷信やら誤った推論やら歪んだ認知は全く抜けない。正しい情報なんて人によってはなんの意味もない。そんなものだ。「家族!仲間!」みたいな当時のジャンプ漫画が嫌いだった。そんな美しい家族なんてどこにもいない。あれは神話だ。美化して現実を覆い隠さないでくれ。苦しみを忘れるような娯楽じゃダメなんだ……。

今では誰にも理解されなくても明るく生きている。そういう術を俺は身に着けつつある。じゃあなんでこんな嫌なエピソードを思い出しては書いているのか?それが俺の青春だからだよ!

心理検査の結果待ちに思うこと

今は故郷の秋田に帰省中である。東京に戻ると1日後には帰省前に受けた心理検査の結果を聞くことになっている。この秋田にいる2週間ほどが、表向きには定形発達者でいられる最後の時期になるかもしれないということだ。

心理検査を受けたことを彼女に話した。「発達障害だなんてありえないと思う」と言われたけど、発達障害だともし分かったらフられるだろうか?そしたら泣くかもしれない。もし発達障害だったら言わないことにしようかな……。それもまずい気はする。迷うところだ。ちなみに母に話したらいつもどおり完全なる無理解と認知の歪みをぶつけられたので心が穏やかでなくなった。それは違うんだよと説明しても秒で聞く気ないでーす!みたいにそっぽを向かれたので来世はもっと良い親の元に生まれたらどうなるかな……とか思っていた。

発達障害だと打ち明けた時、彼女の顔が曇るかもしれないとか、すぐ起こるようなことを考慮しないならば、もし自分が発達障害だと分かったらテンションが上がると思う。逆に定形だとしたら、ちょっとがっかりかもしれない。なんでだ?

考えてみたけれど、それは俺が生半可には理解出来なさそうな変な人間や面白い人間を見るのが好きだからかもしれない。もし自分がそういう周囲の理解を得られないような人間だと分かったなら、俺のことを理解できるのは世界にこの俺だけ、という状況に近くなってくる。そしたらとても嬉しいだろう。こんな面白いコンテンツを、俺が独り占めしているってことになるんだから!独占欲が満たされる。俺は結構マニアな人間なので、好きな作家とか学者がいたら日常生活まで覗き込んで隅々まで見回してみたい!と思う。作品や論文となんの関係もなさそうなところまで隅々と。(好きな女の子や女性アイドルに対してそういうことをしたい、とかは思ったことがない。学者や作家を近くで見たことはあっても本当にストーキングしたことはない。倫理。)好きな学者の日々の挨拶やジョークをいちいち記録してアーカイブ化したい!というか、既に自分に関してはそれを楽しんでやっている。過去の自分を見るのが好き。自分の顔が好きとか、自分の性格が好きとか、そういう実在的要素に関するナルシシズムとは少し違う気がする。1週間前の自分は大好きだけど、現在の自分に対する強烈な好意みたいのはぜんぜん無い。話が逸れたなぁ。元の、俺の理解者が俺だけになったら嬉しいという話に戻りたい。まぁ要するに、青春をまさに送るものたちにとっては「理解者が欲しい!友達が欲しい!」みたいなのは切実な問題かもしれないけど、自分はそうではなくなってきたという話がしたいんだ。

大学に入るくらいまでは、俺は俺の理解者が世界のどこにも居やあしないと絶望し、日々苦しんでいた気がする。孤独、無理解、傷心、疲弊。それが退屈さと共にずーっと永遠に続くということに暗い気持ちになり本当に自殺を考えていた。何もかもうまく行かない。勉強もスポーツも友達関係も親子関係もうまくいかない。ゲームとか趣味のことですらできなくなっていた。ゲーム起動までできればまだすごく良い方で、起動して3秒くらいしか電源を入れたままにできなかったのだ。3秒の間に「これをやってもつまらないだろう。これをやってどうなる?これをやっても仕方がない」と瞬時に未来を計算し終わって悟ってしまう感覚が発生していた。ゲームでさえこれなのだから、教科書やノートを広げて勉強しようなんていう気にはなる訳がなかった。今でもそういう感覚を何に対しても薄く引きずっている気がする。当時は何もできず、ただ掛け値なく本当にただ気持ちよく布団で眠っていた。学校に通っている間はスポーツで筋肉がついていたのに、ずっと眠っていれば小さい老人みたいになる。顔も痩せる。体重はめちゃくちゃ落ちる。そんな感じだった。家には自殺用ヘリウムガスボンべとチューブが買って置いてあった。眠れない時にはそれのことを考えていた。本当は抱いてじっと見つめたかったが、それをやるほど元気でもなかった。ただ、会えない恋人のことを想うようにヘリウムガスボンベのことを想って、震えて枕を濡らしていた。俺にできることはそれだけだった。本当それだけ!世界に要素がそれだけだったので、孤独を感じるほかなかった。世界が寂しい。世界が乏しい。誰のことも理解できないし、誰にも理解されない。俺は一人でこの寂しさを抱えて生きる。誰とも共有なんかできない……。

と、大学に入るまでは思っていた。うん。

高校にいるころまで俺は、自分が世界で一番特殊で、学校の勉強もできないのに自分が世界で一番頭がよいのだと思っていた。だからこんなに毎日苦しくて嫌で吐きそうなのだと。大学に行ったらそんなことはなかったと分かった。つまらない人間も大勢いたけど、呆れるほど頭が良い人間も複数見つけてしまったのだ。権威のある学者が概念だけでなく本当にいるなんて聞いてない!俺より500倍くらい頭が良い同い年の人間がいるなんて理解不能だ!という感じだった。俺が全然特殊でもなんでもない凡俗な人間だということを理解した。俺が孤独であるのは、俺が実在的に特殊な性質を持つ人間だからではなかった。そして、それまでの人生を後悔した。もっと真面目に人生やってくればよかったな、と。俺は全然頭なんて良くなかったのだ。もっと勉強の積み重ねが必要だった。それに気づいただけでも、大学に来た価値はあったかもしれないが……。大学は無闇やたらに人を苦しめる機構が少ないし、多様な人間がいる良い場所だ。最初からこういう義務教育ならばどんなに救われただろう、と思わなくもない。

大学に来てアイデンティティみたいなものがめちゃくちゃに揺らいでしまった。俺は特殊な人間なのか?ということ。実は俺は絶対的に特殊な人間であり、俺だけがそれに気づいているからそれでよいのだが、それだけでは何の味もしないのだ。ちょっとでも俺が変な人間なら、ほんのすこし安心できる気がする。それで俺が発達障害ならいいな、という話に繋がる。俺はこの人間の一生をつぶさに見ることになるのだから、その人間が面白い人間で、簡単に理解できないような複雑で非定型なものでなければつまらないだろう?だって、「普通の人生でした」で終わったら面白いか?見どころのないドラマを見て、どうやって他のドラマと違う感想を述べる?特殊なことがない人生をどうやって他と区別し、自分のものだと心から思える?「発達障害」というラベルだって今では広く知れ渡ったものだけど、多少も救いにならないものではない。

分かったことは、理解者など自分以外にいるものではなくて、それが必然だということ。そして自分の理解者は自分だけで充分なのだということだ。こういう悟りは、高校生の頃までの俺にはなかった。そして、真に俺は孤独なのであり真に特殊なのであるということにも気がついた。高校生の頃だって自分のことを孤独で特殊だと思っていたが、今はレベルが違う。俺はどうあっても孤独で特殊なのだ。どうあっても孤独で特殊なのだから、それに泣いたりする必要はない。そうでないことなんてありえなかったのだから。そうなってくると問題なのはもっと小さなことになる。すなわち、孤独とか特殊とか大きいことは悩むことじゃないから、とにかく複雑で豊かで面白くて飽きない楽しい人生であれ!ということ。

なんかやたら抽象的で意味不明だったり矛盾したりしていることを書いてしまっている気がするが、俺には意味が分かるからいいや。過去のことを考えたり書いたりするのは楽しい。それがどうあっても特殊で味わい深いものに見える。そして、この文もいつか俺によって省みられ、楽しまれるに違いない。そうでしょ?悪文や誤謬、偏見やイデオロギーを後から充分に楽しんでよ。

さて、心理検査はどうなっているだろう。楽しみだ。ま、健常者だったらそれはそれで嬉しがってもよいだろうな。